第4回ちくりん舎シンポジウム(報告)

辻淑子さんfacebookより
https://www.facebook.com/tsuji.yoshiko

 昨日、飯田橋の東京しごとセンターで、第4回ちくりん舎シンポジウムが開かれました。
 3人のパネラーのお話は、いずれも心に深く突き刺さる内容でした。原発事故から6年。あまりにも不条理な今の状況に、改めて強い怒りを感じると共に、声を上げ続けることが「ひと」として生きる、ある意味当たり前の行為であるということを確認した集会でした。

 とても一言でまとめることはできない重厚な内容でしたが、あえて印象に残ったことを短く紹介します。

安田和也さん:都立第五福竜丸展示館主任学芸員
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「水爆の時代と第五福竜丸~被害の広がりを考える」
 広島・長崎の原爆投下を皮切りにおこなわれた核実験は、ビキニで23回、エニウェトク環礁で44回と言う、すさまじい数。エニウェトク環礁の島には、除染で削った表土を捨てコンクリートで覆った「原爆クレーター」と呼ばれ巨大な構造物がある。
 第5福竜丸が被ばくした1954年は、日本が「核の平和利用」に乗り出そうとしていた時代。読売新聞が第五福竜丸の事件をスクープできた背後には、その問題が絡んでいる。
 読売新聞はその後、、核の平和利用を訴える一面記事に、なんと第五福竜丸で被ばくした被害者の写真を大きく載せ、危険な核を平和に利用することこそが大切だと訴えている。(この記事については交流会で伺った話です)

黒川祥子さん:ノンフィクション作家
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「『心の除染』を強いる町に生きる、親たちの6年~ICRPの優等生・福島県伊達市で何がおこなわれたのか」
 伊達市には、全村避難になった飯館村と変わらない深刻な汚染があったにもかかわらず、避難指定がされなかった。特に小国小学校区の汚染は深刻で、子どもたちを登校させることに保護者から強い反発があったが、校庭の表土を取るだけに終わった。全校生徒数十名の小さな小学校で対応は可能であったはずなのに・・・。
 その後、政府が出してきたのが、特定避難勧奨地点という制度。同じ地域の中で、1軒1軒、避難の対象になる家、ならない家を振り分けるという、めちゃくちゃな制度で、地域の深刻な分断を生んだ。(資料の、指定された家とされていない家が示された住宅地図を見ると、とんでもない制度であることが一目瞭然!)
 以上は、お話のさわりの部分です。
 
 黒川さんのお話を聞いて、この不条理な伊達市の実情をひとりでも多くの人に知って欲しいと、強く思いました。
 今年2月に出版された、黒川さんの著書「『心の除染』という虚構」(集英社)を、ぜひぜひお読みください!!  

愛澤弘子さん:浪江町在住時に被災
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「福島原発事故から6年 被災者としての私」
 震災直後から避難に至るまでの克明なお話は、原発事故が起きると、一体どうなるのか、自分の身に降りかかったときどうなるだろうと、自分に引きつけて考えさせられるお話でした。
 避難先で娘さんに起きた変化、その結果、福島に戻ることを決意されたお話には、涙がこぼれました。「避難する、しない」の選択には、ひとりひとりの苦渋の選択があるということ。その辛さは、想像しても想像し切れるものではないことを、教えられました。
 また、愛澤さんが、現在、いわき市で野菜を育て、放射能測定をし、自分の基準で安全を確かめながら、食べて生活をしているというお話は、たいへん示唆に富んだものでした。
 「安全な食べ物とは何なのか」ということは、放射能が人体に与える影響と共に答えのでない問題ですが、だからこそ、事実を客観的に捉え、もっとみんなで考えを深めていく必要があるのだと思います。

 3人の講演者のみなさん、参加された方々、ありがとうございました! スタッフのみなさん、お疲れ様でした。今回も、できれば記録集を作りたいですね!

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